2005年11月15日

娘、変わる

親子の血は争えない。
娘にとっても、彼女との出逢いは衝撃的なものとなったようだ。

我が家のピアニストも、あの日以来変わった。
練習量が格段に増えている。その様子は迫力さえ感じる。
目つきが変わった。音大進学に対して一層力が入ったようだ。
少しは指を休ませなさい。
そう娘に言うこともある。そのくらい壮絶な練習なのである。

『中途半端な気持ちじゃダメだって分かった』

今までだって真剣に練習してきたじゃないか。
ピアノのレッスンだって、小学生の頃にひどい風邪をひいて
休んだのが1回あるだけで、休まずに通っていただろ。
父として、見上げた娘だと思っていたほどだった。
何も中途半端なところなんてないぞ。

『生活の中の一つ一つに、もっと真剣になるの』

それは良いことだな。
些細なことにも一生懸命になれることは幸せなことだし、
なんでもない普通の生活の中に、実は全体にとっては
大事なことがあったりするからね。
でも、急にどうしたんだい?

『生き様が音に出るの、きっと』

ほう、なるほど。 面白いこと言うね。
たしかに、演奏家たちは、元々同じ譜面を見て、
そこに綴られている音譜を実際の音に変えてるわけだが、
演奏家それぞれに違いが出てくる。
テクニックの違いはもちろんのこと、表現の違い、解釈の違い、
様々な違いが出てくるね。
単純に考えれば、テクニックの差はその演奏家の練習量の差が出る
と言ってもいいだろう。
表現の差は、演奏家の感性の差。解釈の差は、知性の差。
生き様にも差が出るのか?
演奏家の自身の人生に対する姿勢・・・それが音に出るのか?

何にしても、善く変わってくれるのなら嬉しいのもである。
あの日依頼、娘は貴香姫とのメールが日課になっているらしい。
メールじゃたいした内容が伝えられないだろう、そう思っていたが、
そこは感性豊かなピアニスト同士。
メールだけの交信でも、十分に思いが伝わってくるそうである。
貴香姫は、一体どんな文章を書くのだろうか。
まさか、文章にも、演奏の時のような魂が込められているのか。

私にとっては高嶺の花、孤高の存在である貴香姫と
娘は友達として日々メール交換をしている。
同性であり同年代ということもあるだろう。
同じピアノを弾くもの同士ということもあるだろう。

羨ましいと思いつつも、
2人をそっと見ていてあげたい、そんな気持ちであった。
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2005年11月06日

娘を連れて

私には娘がいる。
高校2年生である。
娘とは実に仲が良い。同僚などの話を聞くと、
なかなか娘とはうまく付き合えないと言う。
露骨に避けられたり、壁を感じると言う。
そういうお年頃なのだろう。

しかし幸せなことに、私と娘は友達のように仲が良い。
なんでも話し合える。
そう、貴香姫のことも実は娘には話してある。
娘の年に近いということもあり、音大を目指しているということもあり、
そして、誰かに聞いてもらいたくて仕方ないということもあり。
多少迷ったが、人間として貴香姫に惹かれていることも話した。
「不潔!」なんて言われないか、ドキドキしたが。

娘はちゃんと理解してくれたようだった。
それどころか、「私も、そのピアニストに会いたい!」と言い出す始末。
それはそうだろ。娘にとっては、何よりもピアニストとして
自分の父親をすっかり飲み込んでしまったことが、
多少嫉妬もあり、どれほどのものか見定めたいという気持ちもあり、
当然、我が目で我が耳で確かめたいという結論になるだろう。

娘とは半年振りのデートである。
こうして親子でデートできるなんて、私も幸せなオヤジだ。

あまり詳細には書けないが、
BOSHOは、一見して「お店」には見えない。
港区のとある高級住宅街、邸宅街と言った方がいいか、
その一角にある、これもまた邸宅なのである。
いわゆる一見さんお断りで、と言うよりも、外見からして
お店には見えないし、看板も出ていないので、
一見さんになりようがないのだが。
完全会員制で、入会費も云々・・・
これ以上は下世話な内容になるので割愛する。

BOSHOの入り口をくぐり、
エントランスにさしかかる。
重そうな大きな玄関の扉の前に、耳にイヤホンをつけた
ベルボーイのような男性が2人。
娘が緊張している。無理もない。
『ここ、大使館みたい』
確かにそんな印象である。
ベルボーイに、連れが娘であることを告げ、中に入った。

奥のラウンジからは、早くもピアノの音色が聞こえてくる。
ラウンジに通じる通路に並んだ調度品に
『すごい、ここすごいね!超高級じゃん』
と、娘がはしゃぐ。
父親として、ちょっと誇らしい気持ちになった。

ラウンジに入ると、ボーイがさっと寄ってきて、
「お嬢様、○○様、いらっしゃいませ。」

席に移動する時に、娘が私のスーツの裾をククっと引っ張って、
私に耳打ちした。
『お嬢様だって。びっくり・・』
こんなにもはしゃいだ娘を見るのも久しぶりだ。

『あ、フォーレだ。』
そう、さすが我が娘。BGMで演奏されていたのは
フォーレのノクターン。

『すごぉーい。上手。』
それはそうだ。ここのピアニストは厳正なオーディションを
通過して採用されている選りすぐりだ。
年間で採用されるピアニストがいても2人だと聞いている。
ちょっとしたコンクールよりも審査が厳しい。
そうでなければ、耳の肥えたお客を満足させられない。
当然と言えば当然か。

『ねぇパパ、○○さんってピアニスト、どこにいるの?』
「彼女のSTAGEはまだだから、今は控え室だよ。」
『控え室!なんだか芸能人みたい。』
「そうだね。実際芸能人みたいなもんだな。」
『テレビとか出てるの?』
「そういう意味じゃなくて、芸術家ってことだよ。」
『なるほどねぇ』

早くこの目で見たいといった心境なのだろう。
父親を飲み込んだ相手。どれほどのものか。

やがてBGMが終わり、貴香姫の名がコールされた。
と同時に、娘が私の方を向いた。
私は頷いて、娘にその時が来たことを伝えた。

髪をアップに結って、黒いドレスに身を包んだ彼女が
スタンウェイの横でお辞儀をした。

『ちょー綺麗』
彼女に目を向けたまま、私に耳打ちする娘。
早くも彼女の尋常じゃない雰囲気に飲み込まれている様子。

曲が始まった。
これは何だ?初めて聞く曲だ。誰の曲だろう。
とても悲しい旋律。しかし、実に綺麗で洗練された曲想だ。
この子は、ただ悲しいだけの雰囲気を漂わすことはない。
その中に、とても洗練された色彩を織り込むのだ。
お涙頂戴の演奏ではないのだ。
そう、聴衆に媚びない。全く媚びないのだ。
媚びないし、強要もしない。
聴衆が元々心の中に持っているものをそっと引き出すように、
素直な気持ちで、心穏やかに音に身を委ねることができる。

曲の序盤で、彼女の魂が爆発したような激しいフレーズがあった。
娘は、ぴくりとも動かず、食い入るように見つめている。
薄暗いラウンジ内で、シーリングから一条の光が姫に注がれている。
ピアニストに意識が集中するような演出なのであろうが、
彼女の場合は、その演出は必要ないように思われる。
そんな人工的な演出などまったく無に等しいほどに
彼女自身から光が出ているのである。オーラだ。
だれもが、そのオーラに釘付けになるのだ。

1曲目が終わった。娘に聞いてみた。
「どうだ?」
『うん・・』

言葉を失っていた。
困ったような、微妙に眉間に皺を寄せて。
何を感じたのか。ちょっとしたショック状態といったところか。
ピアニストを目指す娘には、私の元に届くものとは別のものが
心に入ってきたのだろうか。同性から見ると、あのような美貌は
どのように目に映るのか。

結局、4曲の演奏を通じて、娘は一度も言葉を発しなかった。
さすがに、私も不安になった。
まさか、不快感を募らせているのではあるまいか。
同性の目から見ると印象がまるで違うのか。
いや、女性のお客にも彼女のファンはたくさんいる。
そんなはずはない。

「この後、○○さんをこの席に呼んでるけど、いいか?」
『えっ!ウソでしょ!』
「なんだ、イヤなのか?」
『違う違う!緊張して話せなさそう。』
「緊張することないだろ(笑)」
(人のことは言えないが・・・)

結局、貴香姫が席に来るまでの間、
娘の口からは彼女の演奏については、何も語られなかった。
どう感じたのか。

『いらっしゃいませ。お嬢様は初めまして(笑)』

演奏の時とはまるで違う、柔らかい笑顔。
一切の憂いを感じさせない、とても優しい笑顔である。

『あのっ・・・1曲目って、ババジャニャンですよね?』
意外なことに、会話の口火を切ったのは娘だった。

『わぁ、よくご存知ですね!』
『もう、本当にすごいです!涙出ちゃった。』
『ありがとうございます(笑)』
『あり得ないくらいすごいです。』

そうだったのか。
感動に包まれて、それで言葉を失っていたのか。
その感動が大きすぎて、本人もその感情をもてあまして
それで困惑したような表情をしてたのか。
泣いていた?それには気づかなかった。
私も釘付けになっていたから、無理もない。

『お名前伺ってもよろしいですか?』
『はい、○○かのんです、華の音と書いてかのんです。』
『わぁ、素敵なお名前!』

『もしかして、パッヘルベルのカノンですか?』
と私に向かって、目を爛々とさせながら。
「そうなんですよ。私が考えたんですけど。」
『わぁ・・・素敵だなぁ。』

『貴香さんだって、すっごく素敵ですよぉ』
『あはは(笑) ありがとうございます♪』

『あのっ・・・ いつか私のピアノを聴いてくれますか?』
『華音さんも弾くんだ♪ うん、いいですよ。聴かせてください(笑)』
「おいおい、そんないきなり。お忙しい方なんだぞ」
焼きたての饅頭のように、娘がプクっと頬を膨らませて
私に抗議の目を向けてきた。

『聴かせてください(笑) 連弾とかしちゃおうか!』
『えっ!本当ですかっ!? ちょー嬉しい!!』
『私もちょー嬉しい(笑) 冬休みとかにね♪』
『うんうんうん! すごぉーい! 本物のピアニストの人と連弾なんて』
『あははは(笑) 華音ちゃん、可愛いっ♪』

娘と話している時の貴香姫は、まさに19歳の少女であった。
普段大学などでは、こんな雰囲気で友達と会話してるのかな。
爽やかで、優しくて、明るい・・19歳らしい顔であった。

BOSHOからの帰り道、
娘と貴香姫の演奏について語りあった。
『貴香ちゃん、ヤバいよぉ』
「ヤバイ?? ヤバいってどういうこと?」
『何もかもが素敵すぎ』
「そうだなぁ。不思議な人だろ?」
『うん。』
「演奏はどう感じた?」
『あり得ない!すごすぎ!』
『でも、音が泣いてたよ。何か辛いことでもあったのかな』

音が泣いていた。なんとも衝撃的な表現だ。
曲調ではなく、音そのものに涙を感じたのだと言う。
自分では経験したことのない、何か得体の知れない悲しみが
音に変わって入ってきたという。
霊感に近いものかもしれない。
その音を通じて、その得体の知れない何かを疑似体験した。
姫との間に共鳴が起きて、まるで今自分が体験しているような
錯覚に陥って、それで自然と涙が出たのだと言う。

確かに、あの曲は初めて聴いた。
今までに、あんなにも悲しい曲を演奏したことはなかった。
何かあったのだろうか。
しかし、席でのあの笑顔。悲しみなど微塵も感じさせない笑顔。
知れば知るほどミステリアスな女性である。

『貴香ちゃんとメール交換するんだぁ(笑)』
「なに?いつの間に?」
『パパがトイレに立った時にね、友達になってってお願いしたの♪』
「おぉ!そうだったのか。それで、教えてくれたのか?」
『うん(笑) 喜んで♪って言ってくれた』
「良かったな(笑) 色々アドバイスしてもらいな」
『うん、あのお店でピアノ弾きたい!』
「そうか!頑張れ!」
「会って良かっただろ?」
『うん!貴香ちゃん、ちょー素敵なんだもん』

親子揃って姫の虜となる夜であった。
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2005年10月29日

目の前の彼女

久しぶりにBOSHOへ行った。2週間ぶりである。
このところ接待が続いてなかなかBOSHOへは行けなかった。
接待する相手がクラシックファンであれば、遠慮なくBOSHOに
お連れするのだが、銀座のクラブの方が好きらしい。

銀座や赤坂などのクラブにも、洗練された魅力ある女性は
たくさんいるのだが、どうも違和感がある。
以前はこれほどまで違和感を感じていなかったのだが、
彼女を見てからは、無意識に比較してしまうのか、
何か違和感を感じる。

今日こそは、彼女を席にお招きしたい。
年甲斐もなく恋心に似た感覚を覚えた。
自分の娘ほどの年齢の子である。恋ではないだろう。
個人的に彼女にお近づきになりたいというのではない。
とにかく、女性として、いや一人の人間として、
私の経験上類を見ない存在である彼女に興味があった。

たしかに、息を呑むほどの美貌はある。
男であれば誰でも、あの美貌の前では心が揺さぶられるだろう。
しかし、その心の揺さぶられ方が尋常ではないのだ。
目鼻立ちの綺麗さだけではない。彼女の醸し出す雰囲気。
魔性とも言えるほどに、人の心を惹きつける何かがある。

もはや女性としてではなく、抽象的な存在として興味がある。
どうしても私の中にある得体の知れない感覚の源を
彼女の中から探りたいのである。

今回は、演奏の前に、勇気を振り絞って支配人にお願いした。
スケジュール表のようなノートブックをチラッと見て、
私のリクエストを受けてくれた。
表で管理するくらい、彼女に対するリクエストは過密なのか。
一体どれくらい、このBOSHOには彼女のファンがいるのか。

今回は不覚にも、彼女の演奏を上の空で聴いてしまった。
曲が進むごとに緊張が増してきて、最後の演奏の時などは、
支配人にお願いしてキャンセルしてもらおうか、それほど緊張した。

彼女は、私の前に2組のお客と会話していた。
しかし、いつも思うのだが、よくあんなにも会話を合わせることが
できるものだ。どんな会話をしているのか知らないが、
様々な年齢層、様々なステータスのお客を相手に、
至極自然に振舞っている。

2組目のテーブルで彼女が談笑している時に、
支配人が私の席にやってきて、
「お待たせしております。あと10分ほどで伺います。」
と私に告げた。あと10分か。いよいよか。

この10分の間に、トイレに行った。
特に用を足したいというわけではなく。
鏡を見て、身なりをチェックしたかったのだ。
年甲斐もないとは思いつつ。

彼女が2組目のテーブルでお辞儀をして、すっと席を立った。
支配人が彼女に近寄り、何か耳打ちしている。
小さくコクとうなづいて、私の方を向き、こちらに歩いてくる。

『こんばんは。いつもご来店ありがとうございます。』

彼女の第一声だった。
いつも? 私が来てることを知ってたのか?
ちょっと呆気に取られていて、大事なことを忘れていた。
彼女は笑顔を私に向けて、テーブルの前に立っていた。
しまった、お招きしたんだから、席を勧めないと。

「どうぞ。お席にどうぞ」

なんてこった。しょっぱなから非紳士的なことをしてしまった。
落ち着け、落ち着け。

場が保てない。顔をまともに向けられない。
こんな間近で見たのは始めてて、いつもの美貌が100倍くらいの
強さで私に襲い掛かってくる。綺麗すぎて正視できないのだ。

苦し紛れに、近くにいたボーイを呼んで、飲み物を注文した。
もちろん、彼女のための飲み物。

『クラシックはよくお聴きになるのですか?』

悟られたのか。彼女から話題を振ってくれた。
私がショパンファンであること。
中学生までピアノを習っていて、今でもごくたまにではあるが
ピアノを触っていること。
娘がいて、娘もピアノを弾いていること。
堰を切ったように、クラシックに対する思い、ピアノに対する思いを
彼女に語った。

真っ直ぐに私を見つめる彼女の瞳。
文字通り、真っ直ぐなのである。
目力という言葉が一時流行ったが、こんなにも力がある瞳を見たことがない。
もちろん、睨みを利かせているといった力ではない。
眼光鋭いというのでもない。
非常に柔らかい、穏やかな瞳なのであるが、
奥底にとてつもない力を感じるのである。
何度も、私の方から目線を外したくらいである。
怖いくらいに真っ直ぐなのである。

それから、細かいことだが、
彼女の相槌。これには感心した。
頷くときの、その頷き方、頻度。どれを取っても
話す側のペースを配慮しているといったくらいに、
話す側が気持ちよく話せる頷き方をするのである。
私は、このペースで会話が進むととても心地よい。
そのペースが分かっているかのように、
絶妙なタイミングで頷き、聞き返し、返答するのである。
これも彼女の感性のなせる業か。
一流の感性の持ち主は、会話でもその感性を発揮するという。

ある程度は予想していたが、
初期の目的は全く果たせなかった。
もっと彼女の内面を知りたかったのだが、
とてもそんな余裕がなかった。時間的な余裕もなかったが
何よりも、すっかり彼女に飲み込まれてしまった。
年齢とか性別云々の問題ではないが、
若干19歳の少女に完全に飲み込まれてしまった。
漠然とではあるが、器が違いすぎるとも感じた。
これまでの私の経験から出来上がったモノサシでは、
19歳の女の子、いや、その世代の女の子、いやいや、
もっと世代の幅を広げても、測れる大きさではないと感じた。
初期の目的とは正反対の方向へとコマは進んでしまった。

この子は一体何者だ。
その答えに近づくために、今回席に来てもらった。
実際に目線を交えて、会話を交わして、
その結果分かったこと。

この子は測れない。

一歩後退の夜であった。
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2005年10月15日

そしてN氏から聞く貴香姫

特に大した用事もなかったのだが、
たまには飲もうと、N氏を久しぶりに誘ってみた。
もちろん目的はある。

敢えてその日はBOSHOへは行かず、
銀座の某鮨屋へと。

仕事の話はそこそこに、本題に切り込んだ。
と言っても、そのために誘ったとは悟られずに。

「先日、BOSHOでお見かけしましたよ(笑)」
『あ、もしかして来てたの?』
「はい、お連れの方がいらっしゃったので、ちょっと遠慮しました」
『なんだ、同席しても良かったのに」
(できることなら、そうしたかった)

なんて切り出すか。

「そういえば、Nさん、ピアニスト席に呼んでませんでした?」
『おぉ、見られてたのか!』
「見ちゃいましたよ(笑)」

あれ?もうおしまいですか?これで終わってなるものか。

「あのピアニスト、何ていいましたっけ?」
『うん、○○っていう子だろ?』
「あぁ!そうそう、○○さんですね」
『なんだ、どうした?』
「あ、いえ。 とても印象的な子だなと思って」
『すばらしいね。抜群だよ。ヴィルトゥオーゾだね』

このN氏は、ときどき「抜群」という言葉をすることがある。
N氏に抜群と称された者は、まさに抜群であり誰もが認める
逸材を指すことが多い。
そうだ。まさに彼女は抜群なのだ。そう、ヴィルトゥオーゾ。

「どんな話をされたんですか?」
『うん、あの日彼女が弾いた曲についてね』
「なんでしたっけ?」
『ノクターン17番だよ。君も聴いたろ?』
「よく弾きますよね」
『なんだ、よく行ってるの?』
「あ、まぁ。時々」
『彼女の17番は、抜群だよ。19歳とは思えないね』
「えっ! 19歳なんですかっ?」

なんと、なんと!
実は名前しか知らなかったのだが、20代半ばくらいだと
思っていた。彼女の顔を思い返せば、
なるほど19歳と言われても納得はいく。
しかし、あれはとても19歳の出せる雰囲気ではない。
なんてこった。あれが19歳が出せる風格なのだろうか。

『とても信じられないだろ。19歳だよ』
「はぁ、なるほどぉ」
(もう、言葉が出ない)
『連れがさ、あれこれ根掘り葉掘り聞いたんだよ』
「年齢とかですか?」
『そうだよ。キャバレーじゃあるまいし、恥かいたよ』
「たしかにそうですね。失礼ですよね」
『まぁ、俺も興味あったから黙って聞いてたんだけどな』
(あなたも同罪ですよ、まったく)

そして、私も同罪であった。
又聞きではあるが、N氏から彼女のことを色々聞いた。

大学生であるということ。
しかし、音大ではないこと。
不思議とそれには驚かなかった。
私にとって彼女は、どこの大学に所属しているかなど、
そういった俗世間の枠組みを超越した存在であった。

私が知りたいのは、
これまでの19年間、どんな人生を歩んできたのかということ。
私から見れば、19年は、歩むというよりも、人生に2,3歩
足を踏み入れたというくらいの長さである。
その2,3歩で彼女は何を経験してきたのか。
どんな19年を過ごせば、あのような神が降臨したかのような
オーラを放ち、聴衆を飲み込むような器が出来上がるのか。

私の中では、彼女=ノクターン17番となっている。
ノクターン17番は、ショパンが晩年に作曲したものである。
ちょっとショパンに詳しい人なら知っているだろう。
ノクターンの最高峰と言っても過言ではない曲である。
恋人ジョルジュ・サンドと破局を向かえ、自身の病気もかなり
悪化していたショパンの最晩年の曲。
外側へとほとばしるようなエネルギーはなく、
煌びやかな華やかさもない。
ひたすら深く深く内面にしみ込んでいくような静寂感。
単に悲嘆に暮れているのではなく、暗闇の中を彷徨っているのではなく、
悟りの境地。透き通った光に満ちた静寂の森の中のようである。

私ですらまだ経験したことのないこの境地。
それを若干19歳の彼女は完璧に歌い上げるのだ。
テクニックではない。これは彼女の魂の音だ。
彼女は魂を我々に向けているのだ。そして我々の魂と共鳴する。
もはや、耳に届く音ではなく、全身にしみ込んでくる魂だ。
だから、80年は人生を歩んできたであろう婦人の頬を濡らすのだ。
歴戦のビジネス戦士を純真な子供にしてしまうのだ。

何千、何万の表現を重ねても形容しきれない。
もうやめよう。
posted by knite at 23:11| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年10月01日

N氏と偶然店で

毎週週末となると足繁く通うようになった。
もちろんBOSHOにである。

BOSHOではよくある光景だが、
演奏を終えたSTAGEピアニストは、多くの場合そのまま
控え室に戻ることはなく、お客の席に招かれるのである。
拍手喝采で迎える席もあり、中には花束まで用意してくる
お客もいたりする。

私は今までに一度もピアニストを席に招いたことはない。
気恥ずかしいというのもあり、話題に困るというのもあり、
そして、特別お目当てのピアニストがいるわけでもなく。

貴香姫は別格だった。
出逢いの日から何度となく席に招きたいという衝動に駆られた。
これまた、一度も招いたことがない。
支配人に、彼女に来てもらうよう頼もうとしても、
足がすくんで席を立てない。実に情けない。
さらに、彼女の人気。
引っ張りだこの状態なのである。
あれじゃ休憩も取れないだろうに、とヤッカミ半分の気持ちで
横目で彼女を追うだけである。

嫌な顔ひとつせずに、優しい笑顔を向けている。
気品のある笑顔である。
老夫婦の席に招かれたときなど、これは忘れられない光景なのだが、
感極まったのか、奥様の方がハンカチで目を押さえながら
彼女に訴えかけるように何かを話していた。
私の席からはその内容は聞こえなかったが、笑顔の入り混じった
表情ではあったので、感動を伝えていたのであろうか。

彼女はすっと席を立ち、その奥様のそばへ寄り、
屈むようにして奥様の手を取り、何か囁いていた。
なんて優しい子なんだろう。

今日もまた、演奏が終わった彼女は引っ張りだこの状態。
今日もまた、その彼女を目で追うだけの私。
彼女が席を変えるたびにその行き先を目で追うだけ。

あれ?あの席の男性。あれはN氏じゃないか?
同じ年格好の男性と2人で座っていた。間違いないN氏だ。
取引先の部長で、一度この店に接待でお連れしたのだ。
なんだ、N氏もこの店の会員になったのか。

心中穏やかではない。
私が紹介してさしあげた店である。
この店では私の方が先輩なのである。
なのに、先を越された。貴香姫を招いているのである。
一体何を話しているのか。

今度会ったら、それとなく聞いてみよう。
posted by knite at 02:37| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月10日

再び会いに

あれから1週間。
毎晩BOSHOへと駆り立てる気持ちを抑え、
なんとかその週の仕事を終え、
再び至福の時間へと導いてくれる場所へ。

もちろん、お目当ては貴香姫。
彼女のSTAGEの時間に合わせて店へと急いだ。
今日はどんな演奏が聴けるのか。
あの子は一体何者なのか。音大生なのだろうか。
いや、すでにプロとして活躍してるピアニストか。
衝撃の出逢いの日から、後ろめたい気持ちをなんとなく
感じながらも、ネット上で彼女の名前を探してみた。

あれだけの演奏ができるピアニストだ。
何かしら見つかるだろう。
どこかのコンクールで賞を取っていても不思議ではない。

どこにも見当たらなかった。
ふと自分の前から姿を消し、もう二度と会えないような
錯覚に陥った。
そうやって過ごしてきたこの1週間。
再び彼女をこの目で見たときの喜びは、
形容し難いものであった。

演奏が始まった。
最初の音が鳴った瞬間に、全身がざわめいた。
ショパンのノクターン17番。
この世のものとは思えない程に美しい曲である。
失意、孤独、悲しみを超越して昇華して、
透明な悟りの境地に至ったといった印象の曲。

これを泣かずに聴けるだろうか。
私だけではない。すでに周りでも涙の音が
彼女の透明な旋律に混ざって、私の耳に入ってくる。
こんなに魂を揺さぶられる音があるだろうか。
グラグラに揺さぶられて、自分の中の不純なものが
浮き上がり、涙がそれを洗い流す。
あとは、透き通った子供のような自分がそこに残る。

彼女の凛とした雰囲気。
一瞬見せる深い悲しみを感じさせる表情。
しかし、目の奥には底知れぬ強さが見える。
穏やかな表情であって、揺るぎない強さ。
深い悲しみの中にありながら陽光に包まれる感覚。
そういった彼女の雰囲気がすべて音に乗って
私の心に入り込んでくる。

もっと知りたい。
この子のことをもっと知りたい。
posted by knite at 00:00| Comment(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2005年09月03日

貴香姫との出逢い

半年に渡る新規プロジェクトでデュッセルドルフに行っており、
しばらく足を運ばせていなかったBOSHOに実に7ヶ月ぶりに
行ってみた。

仕事が早く片付いた時や、クラシックファンのクライアントを
接待する時などに決まって行く店である。
その日は週末ということもあって、比較的人の入りが多く、
一見して、満席に近い状態であった。

私が席についた時はBGMの時間帯で、BGMピアニストの沙織さんが
演奏していた。彼女は去年から在籍しているピアニストで、
某音大の2年生。私から見ると十分にSTAGEピアニストの力量が
あると思えるのだが、本人の希望なのか、店の方針なのか、
彼女は入店以来ずっとBGMを担当している。

ワインを飲みながら、久しぶりの至福の時間を堪能する。
やがてBGMの時間が終わり、私にとってはその日最初のSTAGEの
時間へと移っていった。

ピアニストの名前がコールされ、黒服のエスコートに続いて
STAGEピアニストがラウンジに入ってきた。
すでにお客の間からは拍手がおきている。

誰だろう?コールされた名前には聞き覚えがなかった。
この7ヶ月間に新たに入店したピアニストであろうか。
それにしても、この拍手はすごい。
よほど人気のあるピアニストなのだろう。

エスコートが去り、ピアニストがすっとスタンウェイの横に立ち、
ゆっくりとお辞儀をする。
ふっと上げた彼女の顔を見たときに、鳥肌が立った。
なんと美しい。気品のある顔立ち、いや全身から高貴なオーラ
を発しているかのような独特な雰囲気。
何なんだ、この雰囲気は。息を呑むほどに美麗なのである。

STAGEを務めるピアニストだ、相当の実力の持ち主だろう。
このお客の拍手からも、それが容易にうかがえる。
しかも、この美貌だ。期待感が増す。

とても落ち着いた、滑らかな動作でピアノの前に座り、
すっと目を閉じた。演奏前の精神集中だろう。
ゆっくり目を開き、鍵盤に視線を落とす。
その下を向いた表情が、憂いとも、悟りとも取れるような
引き込まれるような表情である。

演奏が始まった。ショパンのGrande Valse Brillanteだ。
楽譜にして2,3小節といったくらいか、彼女の指が動き始めて
わずか数秒で、私の心は彼女の音に捕らわれた。
哀愁に満ちていて、それでいて甘く切ない情緒のある曲である。
彼女の持つ雰囲気と曲想が実によくマッチしている。
この語りかけるような旋律、彼女の物憂いげな表情。
身動きせず、瞬きせず、飲みかけのワインを片手にしている
ことすら忘れて聞き入っていた。

次に演奏された曲は、ショパンのBarcarolleであった。
この子は並のピアニストではない。
テクニックが素晴らしいのだろうか。テクニックだけなら
もっと技巧派と呼べるようなピアニストは何人もいる。
彼女はそれとはまた違う。いや、テクニックだけで評価しても
彼女のそれは、恐らく最上級の部類に入るだろう。
しかし、テクニックだけではここまで聴衆を魅了することはない。
一体なんだろうか。なぜこんなにも心が揺さぶられるのか。
オーラだろうか。カリスマ性なのか。
どんな形容も陳腐に聞こえてしまうであろう。
神々しい。天使が奏でる音。言葉が見つからない。

ふと周りのお客に目を向けると、呆気にとられている人、
険しい顔をして睨みつけるように見入っている人、
ハンカチを片手に、目を潤ませている女性もいた。
一様に魂を揺さぶられているようである。
かく言う私も、その中の一人である。

とんでもないピアニストに出逢ってしまったものだ。
posted by knite at 23:22| Comment(0) | TrackBack(0) | 日記 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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